* オープニングトーク抄録 1.風景とは何か 外見の「見え」≠風景
人が見ている外界の眺めは、ただちに「風景」と呼べるものではない。例えば、医療用語の「見当識」とは、救急医療の現場で、患者に「名前、現在の日付や時刻、ここはどこか」という質問をすることで、患者の意識の正常度を問う方法である。意識があっても、名前や時間や場所を把握できていない患者は、正常とは見なされない。このことからも分かるように、人間は意味の世界に住んでいる。外界の「見え」=「風景」という図式が成立するのは、そのように外界に意味を読みとる「枠組み」(=言いかえれば世界観、世界像)を採用しているからだが、「枠組み」は文化や時代によってさまざまである。 近代的な「風景」観
民俗学者の柳田國男は、列車の窓からの眺めが日本人にとっての「風景」の成立に関わっていると指摘した。たとえば農村の眺めは、住人にとってその土地の生活、気候、歴史などに結びついた名前や意味に満ちている。住人は、その意味の世界の中にかたく結び付いて存在している。それに対し、列車の窓からの眺めは、乗客と無関係に存在し、名所旧跡ではなく、いわば「名もなき風景」であり、ただ見られる「風景」となり得る。それが近代的な「風景」といえる。 2. 風景と写真 風景写真を分類してみる 歴史的に見て、風景写真をめぐる写真家たちの試みは以下の 3 つに大別できるのではないか。
[1]
景観そのものの美しさをイメージとして定着させ、写真の美しさに置きかえる方法論。
[2]
風景を分析・探査の対象、何かをそこから読みとるべきテクストとしてとらえる方法論。
[3]
風景をひとつの器として、そこに写真家自身の内面の思いや感情を仮託する方法論。 このように、実際にはほとんどのすぐれた「風景写真」はこの三つの要素をあわせ持っていて、そのいずれかに力点が置かれることで作品が成立していると言える。 風景写真の変容 外界の「見え」=「風景」という図式が成立するのは、ひとつの世界観・世界像が共有されたからであるとすると、時代とともに変化する世界観・世界像によって、「風景」も変容するはずである。同じく、「風景写真」も時代によって変化・変容するだろう。次のような写真は、そうした変化の現れではないだろうか。 アンドレアス・グルスキーの近作=フォトショップによる加工を積極的にとりいれた作品。CAD(computer aided design)で設計された現代建築や都市空間とは、そもそも人間の脳の中というよりも、電子空間から生成した造形であり、空間である。だとすると、アナログなカメラではなく、一度電子情報に置きかえられ、加工されたイメージの方が、より親和的なのではないか。 本城直季のフォーカスコントロールによる作品=中心にだけフォーカスがあり、ミニチュアかジオラマのように見える風景。全体像を把握し、部分を位置づけていくという従来の(近代的)知の在り方ではなく、ピンポイントで部分にたどりつく web 空間での体験と相似しているのではないか。
このように、私たちにとっての日常世界の変化とは、世界観・世界像も変化するということである。グルスキーや本城の作品は、そうした変化の徴候としてとらえることができる。 3. 吉岡さとるの近作は “ 風景 ” なのか
吉岡さとるの近作は、世界各地の高エネルギー物理学研究機関をめぐるシリーズと、最新の脳科学がフィールドとする脳内の現象をめぐるシリーズで展開されている。前者は、屋内の写真やさまざま機材・装置などの写真もあるが、大枠の「風景写真」として考えることは可能である。では、後者はどうだろうか。 |