* オープニングトーク抄録
「何故、我々はそこに風景を見るのか?」
増田玲(東京国立近代美術館・主任研究員 美術課写真室長)
2014年11月 8日(土)17:00 ~ 18:10

1.風景とは何か

外見の「見え」≠風景

人が見ている外界の眺めは、ただちに「風景」と呼べるものではない。例えば、医療用語の「見当識」とは、救急医療の現場で、患者に「名前、現在の日付や時刻、ここはどこか」という質問をすることで、患者の意識の正常度を問う方法である。意識があっても、名前や時間や場所を把握できていない患者は、正常とは見なされない。このことからも分かるように、人間は意味の世界に住んでいる。外界の「見え」=「風景」という図式が成立するのは、そのように外界に意味を読みとる「枠組み」(=言いかえれば世界観、世界像)を採用しているからだが、「枠組み」は文化や時代によってさまざまである。

近代的な「風景」観

民俗学者の柳田國男は、列車の窓からの眺めが日本人にとっての「風景」の成立に関わっていると指摘した。たとえば農村の眺めは、住人にとってその土地の生活、気候、歴史などに結びついた名前や意味に満ちている。住人は、その意味の世界の中にかたく結び付いて存在している。それに対し、列車の窓からの眺めは、乗客と無関係に存在し、名所旧跡ではなく、いわば「名もなき風景」であり、ただ見られる「風景」となり得る。それが近代的な「風景」といえる。
そうした近代的「風景」観を成立させるには、「対象と距離を取り、主体と客体を切り離す」「眺めに『枠』をはめて切りとる」といったことが必要だとすると、これらはすべて「写真」(=カメラ)で外界にまなざしを向ける経験となじみがよい。したがって、「写真」をめぐるさまざまな経験の蓄積も、近代的な「風景」観を成立させる上で、大きな役割を果たしてきたものであろうと考えられる。
とはいえ、「風景写真」という時、少なくとも、それを表現・表象行為として他人に見せようとするなら、ただ外界に向けてシャッターを切ったというだけでは不十分である。
では「風景写真」とは、どのように成立するのだろうか。

2. 風景と写真

風景写真を分類してみる

歴史的に見て、風景写真をめぐる写真家たちの試みは以下の 3 つに大別できるのではないか。

[1] 景観そのものの美しさをイメージとして定着させ、写真の美しさに置きかえる方法論。
例:アンセル・アダムズのアメリカ西部の自然をめぐる作品。見たこともないような美しい自然景観を、完璧なモノクロ写真で表現し、美しさの純度を上げる方向性を示している。

[2] 風景を分析・探査の対象、何かをそこから読みとるべきテクストとしてとらえる方法論。
例:ロバート・アダムズやルイス・ボルツといった「ニュートポグラフィクス」の作品。とりたてて美しくない、見慣れた景観に分化的背景、社会的背景などを読みとる手掛かりを浮かび上がらせるような写真の使用法で、新たな知見や視点を提示している。

[3] 風景をひとつの器として、そこに写真家自身の内面の思いや感情を仮託する方法論。
例:アルフレッド・スティーグリッツの「Equivalent(等価)」と呼ばれる作品。雲の動きや樹木などを、内面の感情のメタファーとして提示することで、外界の眺めと、写真家の内面の相互作用に立脚している。

このように、実際にはほとんどのすぐれた「風景写真」はこの三つの要素をあわせ持っていて、そのいずれかに力点が置かれることで作品が成立していると言える。

風景写真の変容

外界の「見え」=「風景」という図式が成立するのは、ひとつの世界観・世界像が共有されたからであるとすると、時代とともに変化する世界観・世界像によって、「風景」も変容するはずである。同じく、「風景写真」も時代によって変化・変容するだろう。次のような写真は、そうした変化の現れではないだろうか。

アンドレアス・グルスキーの近作=フォトショップによる加工を積極的にとりいれた作品。CAD(computer aided design)で設計された現代建築や都市空間とは、そもそも人間の脳の中というよりも、電子空間から生成した造形であり、空間である。だとすると、アナログなカメラではなく、一度電子情報に置きかえられ、加工されたイメージの方が、より親和的なのではないか。

本城直季のフォーカスコントロールによる作品=中心にだけフォーカスがあり、ミニチュアかジオラマのように見える風景。全体像を把握し、部分を位置づけていくという従来の(近代的)知の在り方ではなく、ピンポイントで部分にたどりつく web 空間での体験と相似しているのではないか。

このように、私たちにとっての日常世界の変化とは、世界観・世界像も変化するということである。グルスキーや本城の作品は、そうした変化の徴候としてとらえることができる。

3. 吉岡さとるの近作は “ 風景 ” なのか

吉岡さとるの近作は、世界各地の高エネルギー物理学研究機関をめぐるシリーズと、最新の脳科学がフィールドとする脳内の現象をめぐるシリーズで展開されている。前者は、屋内の写真やさまざま機材・装置などの写真もあるが、大枠の「風景写真」として考えることは可能である。では、後者はどうだろうか。
前述したように、世界観・世界像が変化すれば、「風景」もしくは「風景写真」も変化すると仮定したが、一方、吉岡の「Sciencescape」とは、最先端の科学が、世界についての新たな知見を切り開く現場、まさに世界観・世界像が変化している場に立ち会って、写真家が見たものを写真として提示している。だとすると、今まさに変化しつつある「風景」の写真、あるいは新たな「風景写真」の生成として、これらの作品を見ることが可能なのではないだろうか。
知の最前線が開く新たな世界像の現場そのものでありつつ、それを直接的でなくとも表象する、そうした作品として「Sciencescape」を眺めてみたい。